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シドニーの月刊日本語情報誌 「Japaralia」に連載中の映画評を掲載しています。
Text by 竹内牧子

2008年11月

青い波間に揺れる夢

ブルー・ブルー・ブルー
Newcastle (TBA)

映画とは旅のようなものだと思っている。約2時間の間に、誰かの人生を垣間見せてくれるツアーのようなものだと。出発からたちまちのめり込み、かなり遠くまで足を伸ばせる場合もあれば、ツアー開始から30分経っても車酔いや食事が合わなかったりで、なかなか旅を満喫できないこともある。「ブルー・ブルー・ブルー」は出発後5秒でスクリーンの世界に身を置くことができた前者の典型のような作品だ。

物語の舞台はニューキャッスル。石炭の輸出港として有名な港町だが、若者にとっては退屈な田舎町といった感も否めない地方都市。この町で暮らすジェシー(ラクラン・ブキャナン)はサーフィンをこよなく愛する17歳。サーファー仲間のアンディー(カーク・ジェンキンス)、スコッティー(イスラエル・カナン)、ネイサン(ベン・ミリケン)らと連日海に出ていた。彼の夢はサーフィンの大会で優勝して、この町を出ること。さもなければ、かつてプロサーファーを目指した異母兄ヴィクターと同じように、父(シェーン・ジェイコブソン)とともに港湾労働者として働く将来が待っていた。しかし大会予選でアンディーに敗れたジェシーは意気消沈、見かねた周囲はジェシーの双子の弟でちょっとオタクなファーガス(サヴィエ・サミュエル)や女友達も連れ、彼を海辺のキャンプに連れ出すことに。しかしそこにヴィクターらが現れ、思わぬ事態が引き起こされるのだった。

本作の冒頭はジェシーが早朝、海へと車を走らせるシーンから始まる。薄紫色の朝もやの中、ボードを車に積む。海には今日も良い波が出ていて、朝の光に包まれながら、沖合いに漕ぎ出していく。美しい映像と効果的な音楽とで、観客も一緒に海に出たような気分にさせられる、素晴らしい導入部。旅の道中も決して飽きさせない。大会で友人に敗れた挫折、現代の若者らしい異性との奔放な付き合い、そりの合わない双子の弟や異母兄との確執や和解を織り交ぜつつ、主演のラクラン・ブキャナン以下、若手俳優陣が披露するスタントなしの見事なサーフィン・シーンで魅了してくれる。青い空と海、輝く太陽、白い波しぶき、そして瑞々しくしなやかな肉体美。脇を固める父親役のシェーン・ジェイコブソン(「ケニー」)やおじいさん役のバリー・オットー(「ダンシング・ヒーロー」)らの落ち着いた演技が、若いエネルギーに満ち溢れた躍動感をさらに際立たせている。

「サン・オブ・ア・ライオン」、「テンダー・フック」などオージー映画の秀作が目立つ昨今だが、本作は豪・日の合作。日本では今年の6月に既に公開されている。

2008年9月

動乱の国に生きる女性の物語

ペルセポリス
Persepolis (M)

宮崎アニメの素晴らしさを知ったのはつい最近で、押井ワールドにもまだ足も踏み入れていない私のようなアニメ音痴には珍しいことなのだが、昨年からずっと見たいと思っていたアニメーションがあった。それはカンヌ国際映画祭、ニューヨーク映画批評家協会賞など、各国の映画祭で様々な映画賞を受賞した本作「ペルセポリス」。 イラン出身でフランス在住のイラストレーター・漫画家のマルジャン・サトラピが自身のベストセラー・グラフィック・ノベルを監督として映画化しており、女優のカトリーヌ・ドヌーヴ、ドヌーヴとマルチェロ・マストロヤンニの実娘のキアラ・マストロヤンニが実生活同様、作品中でも母娘の声を担当したことでも話題になった。

1978年、イランの首都テヘラン。9歳のマルジャンは明るく活発な少女。両親(母親の声:カトリーヌ・ドヌーヴ)と祖母とともに何不自由なく暮らしていたマルジャンだったが、翌年イラン革命が起きる。政府はイスラム教に基づいた国家建設を推進し、女性は黒いヴェールの着用を義務付けられることに。さらに翌年にはイラン・イラク戦争が勃発して、スーパーの棚からは食料品が消え、警察が風紀を取り締まり、空襲で街が破壊されてしまう。不安定な国の情勢を憂慮し、両親はマルジャンをウイーンに留学させることにする。幼くして親元を離れて一人外国に渡ったマルジャン。孤独や寂しさを抱えつつも、自由を謳歌する。悪い友達が沢山でき、恋も何度かする。運命の人と思った彼が同性愛者だったり、信じていた男に手ひどく裏切られたりしながら、無垢な少女だったマルジャンも次第に大人の女性に成長していく。ところが恋人とのつらい別れが尾を引き、心身ともに衰弱しきったマルジャンはついにはホームレスになってしまい、イランに帰ることを決める。額に何本もの皺が刻まれ、すっかり年老いた両親をマルジャンはすぐに見つけることができず、また両親も美しく成長した娘の姿に気づかないという空港での再会シーンが涙を誘う。依然として政府の粛正下にあるイランだったが、マルジャンはほどなくある男性と出会うのだったが・・・。

作品は再度イランを離れてフランスに向かう現在のマルジャン(声:キアラ・マストロヤンニ)による回想シーン(モノクロ)がメインとなる。この国の動乱の歴史を好奇心旺盛な女性の視点から描いており、一人の女性の成長物語として見ることもできる。つらい恋を重ねつつも、幸せを手にしようと模索するマルジャンの姿は女性なら誰でも共感できるに違いない。彼女がいつか幸せをつかむように、この国にも真の平和が訪れて欲しいと願わずにはいられない。モノクロゆえのシンプルな力強さと美しさが印象に残る。

2008年8月

戦火に生きる家族

サン・オブ・ア・ライオン(邦題未定)
Son Of A Lion(PG)

先ごろラッド首相は総選挙での公約を守り、イラクに駐留しているオーストラリア兵の順次撤退を開始した。しかし言うまでもないことだが、イラクでの戦争はまだ終わったわけではないし、世界のいたるところが依然として戦火にさらされている。
 
パキスタン北西部にある山間の村ダル。この地ではイスラム教徒のパシュトゥーン族が武器製造を生業として暮らしている。父親と祖母と暮らす11歳のニアズは銃器を作る父親の手伝いをしている。父はソ連のアフガニスタン侵攻の際、勇敢に戦った元戦士。息子には自分の後を継いで銃器作りをして欲しいと願っている。しかしニアズの思いは違った。「学校へ行きたい。読み書きを習って、従妹からの手紙が読めるようになりたい」

映画は、岩だらけの平原で父親がニアズに自分が作った銃器の試し打ちをさせるシーンから始まる。村の大通りには銃を描いた看板があちこちに掲げられ、武器販売店がずらりと立ち並ぶ。店先では職人が空に向かってできたての銃の試し打ちをする。通行人も慣れたもので、驚くこともなくさっと耳を塞いで通り過ぎるだけだ。危険な武器は大切な収入源であり、生活の一部としてあまりに自然に人々の日常に溶け込んでいる事実に愕然とさせられる。しかしこの作品が描こうとするものは別にある。学校へ行くことを断固として許さない父親に耐えかねて、就学を薦める叔父が住む街へ家出するニアズ。心配のあまり夜を徹して息子を探し、神に祈る父。普段は口を挟まない祖母がそっと言葉をかける。「人生は人それぞれ違うのだよ」。戦火の地でも子を思う親がいて、親に反発する子がいる。床屋での散髪や歯医者での治療風景、チャイ屋でくつろぐ男達、パキスタンならではの土派手なトラックや巡回バスなど、人々の暮らしの風景も随所に織り込まれ、当初は武器と暮らす"異端者"にしか見えなかったパシュトゥーン族が次第に身近な存在に思えてくる。

監督はシドニー出身のベンジャミン・ギルモアで本作がデビュー作。昨年の釜山国際映画祭に続き、今年2月のベルリン映画祭フォーラム部門でも上映され、観客の大きな支持を得たという。「9/11以降、世界中から偏見と差別にさらされてきたイスラム教徒に対する人々の認識を変えたかった」というギルモアの意図は見事に達成されたと言えるだろう。独立系作品ながら、オーストラリア映画界からこのような優れた作品が、また一つ生まれたことは喜ばしい限り。

2008年7月

父と息子の最後の日々

あなたが最後に父親と会ったのは?(邦題未定)
And When Did You Last See Your Father?(M)

私は3人姉妹で男兄弟はいないのだが、母によると父はやはり息子を欲しがっていたそうだ。頑固で口うるさい父だから、もし私が男として生まれていたら、何倍も厳しく育てられたに違いない。というのも父親と息子の間には、娘との間にはない緊張感があるように思うからだ。父親は息子にとって一番身近な教師であり永遠のライバルのような存在。母と娘とは違い、友達関係にはなれないのだ。

教師と書いたが、世の中には反面教師の父親も少なくない。本作に出てくる父親も多分にその傾向がある。両親が暮らす実家に久しぶりに帰ることになった作家のブレイク(コリン・ファース)。医師の父アーサー(ジム・ブロードベント)は、自己顕示欲が強く、豪快で型破り。いつも家族の中心で、ブレイクは幼い頃から良くも悪くも父に翻弄されてきた。家を出て結婚し、作家として成功してもなお、ブレイクにとってアーサーは全く理解できない、疎ましい存在だった。そんなブレイクが帰省することになったのは、父が末期ガンで余命いくばくもないとわかったから。日に日に死に近づいていく父親を見つめながら、ブレイクは忘れかけていた父の思い出を一つ一つ取り出していく。医師の特権を乱用し競馬場で列を追い抜かす父、思春期のブレイクを身内のパーティーでからかう父。悪気はないが乱暴でデリカシーのない父は、繊細なブレイクをさらに文学の世界へのめり込ませていった。一方で二人には瑞々しく幸せな思い出も。大雨の夜のキャンプや、大学入学のため実家を去るブレイクを強く抱きしめた父。さらにブレイクの回想は長年心にわだかまっていた、あのことにも及ぶ。父と友人ビーティとの親しすぎる仲、二人を悲しそうに見つめる母キム(ジュリエット・スティーヴンソン)の姿。父は母を裏切っていたのだろうか。

なんと言っても圧倒的な父親を演じるジム・ブロードベントがはまり役。こんな父親がいたらどんなにか鬱陶しいだろう。一方のコリン・ファースは対照的に、内面に渦巻く感情を抑えた演技が見事。もはや自分では歩けず、口もきけなくなってしまった父を前にして初めて、その身勝手さも、不器用な愛情の示し方も、ありのまま受け入れることができた息子を好演している。父親と息子の関係とはなんとも厄介で複雑なものらしい。俳優陣の好演に加えて、アナンド・タッカー監督の丹念な演出が静かで強い感動を呼ぶ佳作。


2008年6月

スペインで大ヒットしたホラー映画

エル・オルファナート(邦題未定)
The Orphanage (El Orfanato)(MA15+)

自然豊かな農村地域で生まれ育ったからか、あるいは四半世紀以上も昔のことだからなのか、私の子供時代の遊びといえば、かくれんぼや鬼ごっこ、だるまさん転んだ、石蹴りなどという素朴で原始的なものが多かった気がする。友達との遊びにはDS(任天堂の携帯ゲーム機)を持参、深夜まで携帯電話でメールを送信しあう現代っ子には信じがたいだろうが、これが本当に楽しかった。時間の経つのを忘れて、毎日暗くなるまで外にいたものである。

今ではすっかり姿を消してしまったとは言え、どうやら昔ながらの子供の遊びは世界共通のものらしい。スペインのとある海辺の田舎町。孤児院の庭で、"One, two, three, knock on the wall!"と元気に「だるまさん転んだ」遊びをする子供達のシーンからこの映画は始まる。子供の一人、ラウラはほどなくある家庭に引き取られ、孤児院とは長年音信不通になっていた。30年後、夫カルロス(フェルナンド・カヨ)と息子のサイモン(ロジェール・プリンセプ)とともに成人したラウラ(ベレン・ルエダ)がこの地に戻ってくる。廃院していた孤児院を改修し、障害を持つ子供達のための孤児院を開くためだった。開院パーティーを迎えたある日のこと、サイモンが忽然と姿を消してしまう。

最愛の息子の失踪に嘆き悲しむラウラは、あらゆる手をつくしてサイモンを探すのだが、なかなか手がかりがつかめない。観客が少しまったりしかけた頃、謎のソーシャル・ワーカーが壮絶な事故死を遂げる。それまで古めかしい孤児院に潜む見えない恐怖にじりじりと責められていたのだが、打って変わったグロテスクなシーンはまさに不意打ち。この時ばかりは試写室の観客の肩が一様に10センチ跳ね上がっていた。彼女の死によりラウラが去った直後、孤児院で起きた子供達の悲惨な事件が明らかになり、サイモンを連れて行ってしまったのはどうやらその子供達であることもわかるのだが、肝心のサイモンの痕跡は全くつかめないまま。なりふり構わないラウラはついに夫にも呆れられ、一人最後の挑戦に賭ける。子供の頃着ていたようなワンピースに身を包み、テーブルにお菓子を並べて幼馴染が姿を現すのをじっと待つ。それでも何も起こらない。「どうしたら・・・」と考え抜いた末に彼女が始めるのがだるまさん転んだなのだ。"One, two, three, knock on the wall!"の掛け声の後にラウラが振り向くと、そこには・・・。

本作はスペインで大ヒット、数々の映画賞を受賞している。スペインのホラー映画というと同じく子供が主役の名作「ザ・チャイルド」(1976年)を思い出す。子供が大人を殺すひたすら怖い話だった。本作は怖くて、そして悲しいけれど結末に救いのある作品。

2008年5月

真実の愛に出会う一日

ミス・ペティグルーの素敵な一日(邦題未定)
Miss Pettigrew Lives for a Day (PG)

恋多き女性が恋の上級者でもあることは多いけれど、真実の恋をなかなか見つけることができず、チープな恋愛を繰り返すというのもよくあるパターン。特に若い頃ならば誰もが多少は経験があることなのかも。人生の折り返し地点を過ぎた今まで、一度も恋をしたことがなかったハイミスが、複数の男性と浮名を流す若い美貌の歌手と出会い、その一日の間に、彼女に真実の恋に気づかせ、自分自身も生涯初めての恋をするという、おとぎ話のようなロマンティック・コメディーがこちら。

舞台は1939年のロンドン。ある日突然仕事をクビになってしまった中年の家庭教師ミス・ペティグルー(フランシス・マクドーマンド)は、ひょんなことから若いアメリカ人歌手デリシア(エイミー・アダムス)と出会い、彼女のソーシャルセクレタリー(個人秘書)として働くことになる。マンションに入れ替わり立ち代りやって来るデリシアの恋人達、劇団主宰者のフィル(トム・ペイン)、ナイトクラブのオーナー(マーク・ストロング)、そしてピアニストのマイケル(リー・ペイス)と次々に遭遇し仰天しつつも、デリシアの恋とキャリアの成功のため、一肌脱ごうと決意する。生まれて初めてのヘアメイクと豪華なドレスで美しく変身し上流階級のパーティーへ入り込むミス・ペディグリーは、そこでダンディーな有名デザイナーのジョー(シアラン・ハインズ)と出会うのだった。

どこか憎めない典型的ブロンド娘を演じるエイミー・アダムスの好演も評価したいが、やはり何と言っても主演のフランシス・マクドーマンドがいい。アカデミー賞主演女優賞を受賞したコーエン兄弟の「ファーゴ」(96年)での刑事役を始め(ジョエル・コーエンは夫でもある)、様々な作品で演技派女優としての地位を確立してきたマクドーマンド。美人とは言いがたいものの、意志の強さと知性が感じられる容貌で、これまではシリアスな役柄が多かったような気がする。本作ではデリシアの奔放な男関係に目を白黒させたり、変身後の自分の姿にうっとりしたり、素敵な男性と出会って頬を赤らめたりと可愛いのだ。さすがは演技派女優、コミカルな役も難なくこなす。

時折、第二次世界大戦が暗い影を落としつつも、豪華な食事をしながらの下着のファッションショー、生バンドを呼んでの自宅パーティーやナイトクラブでのアフターパーティーなど、この時代の上流社会の絢爛豪華なソーシャルシーンが垣間見られるのも興味深い。


2008年4月

人を癒す映像と音楽

五彩のヴェール(邦題未定)
The Painted Veil (M)

映画好きなら、映画を見に行って眠くなってしまうことはあまりないだろう。しかし、この映画の最中、うとうとした瞬間があった。正確に言うと、眠ったと言うよりは眠りの一歩手前、意識が遠くなっている段階が数秒だけ訪れたのだ。こう書くと、退屈な映画だったのかと思われてしまうかもしれないが、そうではない。

1920年代のロンドン。裕福な家庭に育った結婚適齢期のキティ(ナオミ・ワッツ)は、口うるさい親から逃げたい一心で、中流階級の細菌学者ウォルター(エドワード・ノートン)からの求婚を受け入れ、上海へと渡る。自分を深く愛してくれているものの、不器用で無口な夫には全く愛情を抱けず、夫婦共通の友人だった既婚のチャーリー(リーヴ・シュライバー)と深い関係になってしまう。妻の浮気を知ったウォルターは、コレラが蔓延する僻地の村に志願して赴任することを決め、キティにも随行を強いる。いやがるキティだったが、不貞を公にするとの夫の言葉に、彼女の選択の余地はなかった。

いくつもの山と谷を超えてたどり着いた村には水道も電気もない。コレラが猛威を振るう村では、満足な治療を受けられない村人が次々と命を落とし、地獄絵と化していた。ウォルターは病気の根絶のため昼も夜もなく働き、キティはそんな夫の姿に心を動かされていく。水墨画から抜け出たような、高くそびえる山々とただ穏やかに流れる川。何もない地の果ての、けれど世界で最も静謐で美しい場所で、夫の凍りついた心は氷解し、妻は夫を愛し始め、二人は少しずつ本当の夫婦になっていく。自然には人間を大きく包み込む、大きな治癒力があると感じずにはいられない。雄大な風景を背景に流れるピアノソロが素晴らしく、誰が弾いているのかと思ったら、世界的に注目されている中国人ピアニストのラン・ランだった。

一瞬意識が遠くなったのは、広大な自然美と心地良い音楽が五感に作用したからと思う。村上春樹氏が、同じく音楽に関わる映画を見ていたときに、滋養を身体全体で味わい寝てしまったとエッセイに書いていたが、同じようなことが起こったのではないだろうか。見終わった後、心身がリフレッシュされているような感覚があった。主演のナオミ・ワッツとエドワード・ノートンはともにプロデューサーも務めており、それぞれ適確な演技を見せている。サマーセット・モームの長編小説が原作。

2008年3月

ハッピーエンディングは君

ディフィニトリー、メイビー
Definitely, Maybe (PG)

 小学校三年生の時、先生が一冊の絵本を読んでくれた。その絵本とはピーター・メイルの「ぼくどこからきたの?」。命がどうやって生まれるのかを具体的にわかりやすく子供に教える、性教育絵本の名作とされている作品。家に帰って絵本に書いてあったことは本当かと聞いて、母親を困らせたものだった。

 政治コンサルタントのウィル(ライアン・レイノルズ)は現在離婚調停中。ある日のこと、学校で性教育の授業を受けてきた10歳の一人娘マヤ(アビゲイル・ブレスリン)に「パパとママはどうやって出会ったの?」と質問される。かつて恋した3人の女性について、彼女達の名前を変えてマヤに話し始めることに。彼の物語は、92年に大学し、政治家になる夢を抱えてNYにやってきた若き日々に始まる。初恋の相手で大学時代の恋人エミリー(エリザベス・バンクス)を故郷に残して、クリントン大統領候補の選挙事務所で働き始めるウィル。第二の女性は事務所の同僚エイプリル(イズラ・フィッシャー)。政治には無関心だが、ウィルをいつも気にかけていた情の厚い彼女。第三の女性は新進気鋭の美人ジャーナリスト、サマー(レイチェル・ワイズ)。性格も外見も三人三様だがそれぞれに魅力的な彼女達。さて、三人のうち、ママは誰なのだろう。

 かつての恋人達の話を、ありのままに娘に語って聞かせるウィルと、大人びた様子で父親の話に耳を傾けるマヤ。こんな子供はいない、という気持ちにさせられないのは、アビゲイル・ブレスリンの演技力に負うところが大きいだろう。「リトル・ミス・サンシャイン」での好演が思い出される。それほど愛し合って結ばれた二人でも別れてしまう人生の複雑さに触れ、"It is not a happy ending."(ハッピーエンドじゃないのね)涙を流す娘に、"The happy ending is YOU."(マヤが生まれてくれたことがハッピーエンディングなんだよ)と答える父。

 性教育から始まった父の物語は、娘にとってちょっと早めの人生のレッスンとなっただけでなく、父親自身にも過去に置き忘れていた大事なこと、本当に大切な人は誰だったのかを思い出させることにもなる。「子供を育てる」と言うけれど、育てられること、教わることも多いのだろう。田舎から出てきたばかりの垢抜けない青年が、大都会で恋を重ね、仕事を覚え、大人の男に成長していく様をレイノルズが熱演。人生のほろ苦さを描きつつ、でも捨てたもんじゃないという気持ちにさせられる、後味の良い秀作。


2008年2月

歌って殺す伝説の理髪師

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師
Sweeney ToddMA15+

 美容師や理髪師が出てくる映画は多い。ルコントの「髪結いの亭主」、コーエン兄弟の「バーバー」、ジョシュ・ハートネット主演の「シャンプー台のむこうに」、クイーン・ラティファ主演の「ビューティー・ショップ」、韓国映画の「大統領の理髪師」などなど。魔法使いのように誰かをきれいに変身させるこの職業には夢があるし、お客が次々と訪れる美容院は人間ドラマの宝庫。それに、無防備な状態でカット台に座る客とハサミを持つ美容師の間にはどこか緊張感が漂っていて、物語が始まりそうな気配は十分なのだ。
 ここに悪魔の理髪師がいる。19世紀のロンドン。無実の罪で監獄へ送られた理髪師のベンジャミン(ジョニー・デップ)は15年後に脱獄を果たす。ロンドンに戻った彼が知ったのは、自分を陥れた判事タービン(アラン・リックマン)に言い寄られ最愛の妻が自殺、娘は彼の養女となり幽閉されているという事実。怒りに狂ったベンジャミンは、スウィーニー・トッドと名を変え、パイ屋を営む大家のラベット(ヘレナ・ボナム=カーター)とともにタービンへの復讐を開始する。理髪店を再開したスウィーニーの元には、腕の良さを聞きつけて次々と客がやって来る。客を仕掛けのある散髪椅子に座らせては、喉をさっと掻き切り、階下のパイ屋の倉庫へとつき落とす。ラベットが焼く人肉入り(!)特製パイは皮肉なことに町の評判になり、憎きタービンの喉元にカミソリを当てるチャンスがやってくるのだった。

 「スウィーニー・トッド」はスティーブン・ソンドハイム原作の有名ミュージカルの映画化。これまで何度も舞台化・映画化され、様々な俳優たちにより演じられてきた作品ではあるものの、毒のある美しさと切なさを描いてきたティム・バートンの独自の世界を考えると、この猟奇的な愛の物語はバートンのために書かれた作品とさえ思える。復讐鬼スウィーニー演じるジョニー・デップにしても同じ。磨き上げたカミソリに口づけする様を見て、バートンとの初作品「シザーハンズ」で両手がハサミの人造人間エドワードの悲しみと純愛を見事に演じていたデップの姿を思い起こした。どちらも彼のはまり役と言っていいだろう。これらの役を誰か他の俳優が演じることを想像するのは難しい。

 スウィーニーもエドワードも、そもそもは純真無垢な存在で、ある意味かわいそうな被害者。スウィーニーの場合はさらに過酷な運命が待ち受けているのだが、悲しくて残酷なラストシーンはバートンの世界が結集されて秀逸。 


特別編 映画監督 緒方明さん

人の心の中にずっと残って、じわじわと効いてくるような作品が好き
 第11回目となる日本映画祭が今年も大盛況のうちに幕を下ろした。ゲストとして来豪した、「いつか読書する日」の緒方明監督に映画づくりへの思いを聞いた。

映画は観客が発見するもの
 インタビューの前日。映画祭で「いつか読書する日」が上映された後、舞台上には観客の質問に答える監督の姿が。この時、非常に印象的な一幕があった。川で水死した槐多(岸部一徳)が引き上げられた時に笑っていた理由を聞かれ、「あなたはどうしてだと思いますか?」と監督が逆に尋ねたのだ。「プールで溺れた時に美奈子(田中裕子)に笑われたことを思い出したからではないですか」という答えを聞くと、「良い観客ですね(笑)。映画とは発見するもの。そういう風に思っていただけてよかった、というのを答えにさせてください」と満足そうな表情を浮かべていた。

 「人の心の中にずっと残って、じわじわと効いてくるような作品が好き。お客さんに面白さを発見してもらいたいと思っています。表現とは結局、見る人のイマジネーションをどれだけ喚起できるかということですから」。緒方監督の作品を見た後には、誰かと話をせずにはいられなくなる。それは作品が投げかけている問題の答えが映画の中ではなく、観客の側にあるからなのだ。もっと言うなら、緒方作品はストーリーをかいつまんで説明することすらも難しい。「いつか読書する日」は確かに"中年男女の不器用な恋を描いたラブストーリー"だが、"50代の独身女性が一人で生きていく話"でもあれば、"35年間自分を殺して生きてきた男の話"でもあり、"死を前にした妻が、夫に本当に好きな女性と共に生きてほしいと求める話"でもある。

 「世界的な主流はジャンルムービー。ハリウッドでも各国の映画祭でも、『どんな映画なのか?』とカテゴライズした上で観客が乗ってくる。ロバート・アルトマンの作品と同じように、そうした流れに真っ向から反対しているのが、青木と僕が作る映画です。それに加えて僕らの作品は原作のない、オリジナル脚本。原作がないと配給会社が二の足を踏む。撮影前の段階の頃も、完成後もすごく苦労しました。配給会社が見つからず一年経ちましたから。あの時は冗談抜きでウツになりましたね(笑)。公開してみたら、賞も取って、"ザマーミロ!"でしたけど。そういう意味で、この作品はすごく苦労した"難産の子"でした」

脚本家、青木研次氏とのコンビ
 ”青木”とは、前作「独立少年合唱団」からコンビを組んでいる脚本家の青木研次氏。TVドキュメンタリー時代からの相棒である青木氏の脚本は緒方作品には欠かすことのできないもの。完成度の高いその脚本は、2005年の芸術選奨文部科学大臣新人賞や第27回ヨコハマ映画祭脚本賞など各界から高い評価を受けている。

 「尊敬しています。友達ではないけど(笑)。今時珍しい孤高の作家ですよ。彼はもともと詩人志望で、脚本は非常に文学的。僕の仕事は文学をどう肉体化、つまり映像化するかということ。『いつか読書する日』のプロットが届いて読んでいたら、美奈子が故郷の坂道を駆け上がって行く光景がふっと浮かんできました」

故郷長崎でのロケ
 美奈子が牛乳を配るため駆け上がる細長く入り組んだ坂道は、それ自体が何かを語りかけるように印象的だ。

 「『独立少年合唱団』を撮った後、講演など故郷の長崎での仕事が増えたんです。小中学校の多感な時期を過ごしたこの街を一人で歩いていて、ここで映画が撮れたらと常々思っていました。中学校時代の通学路には映画館があって、いつもいろんな作品の看板がかかっていました。一人で見に行ったり、映画が大好きだった父親と一緒に行ったり、本当にたくさん見ました。自分の中で映画の産声が上がった街でもあるんです」。長崎は監督が映画の世界に入ることになった出発点と言っていい。

現代は「個」の時代
 「いつか読書する日」の主人公は地方の街で一人暮らす50代の独身女性。物語の主役に最もなりにくい対象に焦点を当てたのはなぜなのだろう。
 
  「30代はずっとTVのドキュメンタリーで歴史上の人物を追いかけてきました。その結果思ったのは、『年表に載らないような個人の歴史をやりたい』ということでした。ここ20年で、東京だけでなく地方でも独身女性が増えました。美奈子は日々をきちんと生きていくことを自らに課した人ですが、彼女を描くことで、一人で生きていくとはどういうことなのかを描きたかった。人は一人で生まれて一人で死んでいくもの、同じものを見ることはできても、分かち合うことは決してできない。結婚していても、子どもがいても、孤独なんです。そして、これこそが戦後日本の形なんじゃないかと。だからこの作品には家族は出てきません」

「独立少年合唱団」
 個人的な話になるが、前作「独立少年合唱団」を初めて見たときの衝撃は今でも忘れられない。エンドロールが終わっても、しばらく立ち上がることができなかったほど。70年代の男子中学校が舞台、思春期の少年を縦軸に、遂げられなかった思いや儚さを描いた緒方監督のデビュー作。青木研次の優れた脚本、主役の少年を演じた伊藤淳史と藤間宇宙の見事な演技、そして「いつか読書する日」での坂道のように、合唱が作品をさらに奥深いものにしていた。

 「今思うと、かけがえのなさ、成長する一瞬の時期の美しさと残酷さを描きたかったんでしょうね。少年にこだわりたかったというのもあります。学生運動を後ろで見ていた世代と言いましょうか。70年代という時代もポイントの一つでしたね。酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)を見て、戦後の日本はねじれてしまったなと、そのねじれの始まりが70年代にあったんじゃないかと思ったんです」

 元革命戦士の教師清野を演じた俳優の香川照之はこの作品でキネマ旬報助演男優賞を受賞、以降、演技派俳優としての地位を確立していくことになった。

 「香川君とは今でもよく話すんですけど、あれ(『独立少年合唱団』)はあの年の奇跡だと(笑)。合唱は吹き替えなし、撮影日数はトータルで5週間ですが、その合間に合宿体制で合唱の練習やリハーサルを8ヶ月間やりました。香川君はいつも軍曹のように子ども達を怒っていました(笑)。大道具や機材もよく運んでいましたね。『いつか読書する日』に輪をかけた低予算映画で予算は5千万。スタッフ・キャストはみんなほとんどノーギャラと言ってもいいほど。香川君は撮影中に車を売ったそうです」

新作も「緒方・青木ワールド」
 緒方・青木組の新作の予定を聞いてみた。

 「この夏、二人で新作のシナハン(シナリオハンティング)のために東北をずっと旅行してました。去年の暮れに書くはずだったんですが、だいぶ遅れてまして、今青木が書いています」。交通事故がテーマで、子どもを殺された被害者と加害者が恋に落ちてしまうというヘビィーなストーリー。撮影は再来年になる予定。「青木ワールドが炸裂する」(監督談)という新作が非常に楽しみだ。

緒方明監督 プロフィール
1959年佐賀県出身。9歳から15歳までを長崎で過ごす。福岡大学在学中に石井聰瓦監督と出会い、石井作品で助監督を務める。1980年の自主制作映画「東京白菜関K者」がぴあフィルムフェスティバルで入選。その後、「ETV特集」「驚きももの木20世紀」などのテレビドキュメンタリーを中心に活躍。初めての劇場映画「独立少年合唱団」(2000年)で第50回ベルリン国際映画祭アルフレードバウアー賞(新人監督賞)を受賞した。続く「いつか読書する日」(2005年)ではモントリオール世界映画祭審査員特別賞を受賞した。


お話の後に

毎年多数公開される劇場映画の中で、大人が見て静かに思いを巡らせたり、誰かと語り合ったりできる良質の作品が一体どれくらいあるだろう。緒方監督はそうした作品を撮ることのできる、数少ない作り手の1人。だからこそ、世界中で最も会いたい監督の1人でもあった。刹那的な娯楽作品を悪いとは言わないが、良い作品とは、約2時間の上映時間だけでなく、見終わった後にまで残り、時にはその後の人生にまで影響を与えてくれるもののことを言うのではないか。そうした映画作りには人一倍苦労も多いのだろうが、これからも見ごたえある傑作を世に送り出して欲しいと切に願う。



2008年1月

ベストセラー大河小説の映画化

君のためなら千回でも
The Kite Runner
(M)


 子どもの頃、お正月になると校庭で凧揚げをしたものだった。自分で作った凧だから、大して高くは飛ばなかったけれど、時間の経つのを忘れて空を見上げていたことを覚えている。アフガニスタンでも凧揚げは子ども達に大人気だ。伝統行事の凧揚げ大会では二人一組で揚げ、凧同士ぶつけ合って相手の凧の糸を切る。最後まで残ったら優勝だ。

 カイトランナーとは落とされた凧を追いかけて拾う者のことで、大抵は凧揚げの補佐役がこれにあたる。他の凧を落とすことだけでなく、落ちた凧を追いかけて見事キャッチすることも凧揚げの醍醐味なのだ。裕福な家庭に生まれたアミールは使用人の息子ハッサンと身分を越えた友情で結ばれていた。ハッサンは優れたカイトランナーで、アミールが落とした凧をいつも取って来た。アミールの母は彼を産んだ時に命を落としていて、彼は自分が母を殺してしまったため、人格者の父に愛されていないのではという負い目をいつも感じていた。ある年の凧揚げ大会に出場したアミールとハッサンは次々と他の凧を切り落とし、ついに優勝する。歓喜の中、最後に切り落とした凧をめがけて走ったハッサンだったが、とんでもない事件に巻き込まれてしまう。アミールは現場に居合わせたものの、ハッサンを助ける勇気がなかった。この日を境に二人の友情は断絶、その後ソ連がアフガニスタンに侵攻し、アミールは父と共にアメリカに亡命するのだった。

 原作は、自身もアフガニスタン出身でアメリカに亡命した経験を持つカーレド・ホセイニの同名小説。世界中でベストセラーとなり絶賛されたストーリーはまだ続く。実はこの場面が映画のファーストシーンでもあるのだが、作家となったアミールはある日、父の古い友人からの電話を受ける。電話を切ったアミールは十数年ぶりに故郷のアフガニスタンへと旅立ち、ハッサンへのかつての裏切りに向き合い、犯した罪をつぐなおうとするのだった。タリバンによる殺戮と破壊で、廃墟と化したカブールの街を行くアニール。冒頭の凧揚げのシーンで映し出された賑やかな市場、美しい山々、子ども達の生き生きした笑顔はもはやここにはない。ふるさとを失うということ、ふるさとを追われるということ、生まれた時からずっと戦争があるということは、どういうことかをまざまざと見せつけられる。

 幼い日の瑞々しい思い出、友情、罪の意識、父への思い、戦争、そして絆の再生・・・物語の巧さとテーマの豊かさに、原作の評価の高さに納得がいくと同時に、優れた大河小説を映像化することの難しさを改めて感じずにはいられなかった。約2時間の上映時間で伝えられることには限度がある。


 







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